1956年、ロイヤルダッチ・シェル・グループ(以下シェル)のマネージング・ディレクターの1人であるジョン・ルードンは、組織が効率的に運営できなくなっているのを感じた。言うまでもなくシェルは、無数の子会社や関連会社を抱える典型的な多国籍企業である。1907年にオランダのロイヤルダッチ・ペトロリアムと英国のシェル・トランスポート&トレーディングが対等合併して発足し、半世紀にわたって当初の形態のまま経営されていた。強力な中央統制型の組織で、戦略上の意思決定はすべて本社で行われる。実行面でも伝統のやり方がつねに踏襲された。シェルはこの方法で他社に先駆けて国際展開に成功してきたのだが、50年代も半ばを過ぎる頃にはコストがかかりすぎるようになった。さらに深刻なのは、意思決定のスピートが競合各社に劣るようになったことである。
ルードンは何かを変えなければならないと思ったが、会社の伝統は重く、よほど説得力のある明快な根拠のない限り、おいそれと改革に着手するわけにはいかない。こうした状況では外部のコンサルタントの助言を得る方が良いとルードンは判断する。中立な第三者の意見を聞き、営々と続いてきたこの組織の形態がもはや持ちこたえられないという自分の確信に裏付けを得たいと考えた。いったん組織改革に着手すれば、シェルをより競争力のある企業に変身させる自信はある。こうして熟考の末、ルードンはマッキンゼーに依頼した。
イギリス人がいやがるだろうから、オランダの会社に頼むわけにはいかない。かと言ってイギリスの会社に頼めばオランダ人が不快に思うだろう。それに私はどちらかと言えば親米派で、テキサスのガス・ロングと親しかった。マッキンゼーを推薦してくれたのはガスだ。もっと正確に言うと、ガスはマービン・バウワーを強く推した。
1956年当時のシェルは、国籍のちがう400以上の企業で構成されていた。いちばん小さいのはコスタリカ事業で、ガソリンスタンドを1ヵ所経営しているだけ。いちばん大きいのはフランス、ドイツ、オランダ事業だった。さまざまな国に散らばった会社は、正式にはオランダ本社か英国本社のどちらかに帰属するが、問題によっては両方に報告しなければならない。同社はアメリカ企業ほど厳格な組織体制を整えていなかったが、これは、猛烈な勢いで国際化を進めてきたせいでもある。50年代半ばまで同社にはとくに問題はなく、世界のどの国でも滞りなく運営されていた。社員全員にシェルの哲学が浸透していたから、ボルネオで新事業を開始するとなっても誰でも信頼して派遣できたし派遣された社員はいちいち指示を出さなくてもすべきことを心得ていた。
シェルの社員は、世界のあちこちの僻地でさまざまな任務を課されることに慣れている。ジャカルタへ行けと言われれば行き、次にベルリンへ行けと言われれば行く。世界を股にかけることは、シェル社員にとって当たり前だった。シェルにいる間に10回以上海外転勤をする社員もめずらしくない(ちなみに当時の社員は全員男性だった)。定年が近づいてくると、ご褒美としてロンドンかハーグの本社にポストが与えられる。こんな仕組みになっていたため、1956年にはどちらの本社でも1万人以上の人員を抱えていた。重要な問題はオランダとイギリスの両方の本社で検討するというのが決まりだったから、意思決定のスピードは遅くなり、最善の決断が下されないケースも増える。
シェルの文化は、当時としてはかなり国際色ゆたかだった。本社の重要なポストはオランダ人かイギリス人で占められているが、アメリカ人も少しいた。オランダとイギリスの教育傾向を反映して、オランダ本社は探査、生産、精製など技術方面を、英国本社はマーケティング、人事、財務、ロジスティクスなど総務方面を担当していた。
シェルのマネージング・ディレクターはオランダ本社4人、イギリス本社3人の全部で7人で、これはオランダとイギリスの持ち株比率(6対4)を反映している。ルードンはマネージング・ディレクターの1人で、次の改選で会長に昇格することが決まっていた。
1950年代半ばを過ぎる頃には、社内のコミュニケーション・システムも各種インフラも事業ニーズを満たせなくなっていた。これは、深刻な事態である。国際石油ビジネスでは、探査、採掘、タンカー輸送、パイプライン、精製プラントを結ぶ通信・ロジスティクス網がきわめて重要だからだ。川上部門と呼ばれる探査・採掘事業と川下部門と呼ばれる精製・販売事業は、どちらも単独では成り立たない、採掘量と精製・販売量の間には必ずギャップがあるので、緊密なコミュニケーションが不可欠である。事業全体を国際的なネットワークとみなし、つねに供給と販売をうまく調整する必要があった。たとえばベネズエラで原油を採掘したら、重油留分を冬の間にニューイングランドで販売する。経由留分はアルバで精製してから欧州向けに出荷する、という具合である。これを世界各地でするのだから、石油ビジネスがどれほど複雑であるかがおわかりいただけると思う。
ジョン・ルードンはこの複雑な組織にメスを入れる必要を感じていたが、どこから手を着けるべきかに頭を悩ませた。現状では反映しているだけに、下手な策を講じて業績悪化を招くのは避けたい。そこでルードンは、シェル・ベネズエラ(CSV)で試してみることを思いついた。大々的な改革の前の小手調べとして、ベネズエラ組織設計を実地テストするという発想である。ベネズエラを選んだのは、ルードン自信が若い頃にCSVで働いた経験があること、またCSVには石油産業の5要素(探査・生産・精製・輸送・販売)がすべて備わっており、組織としても文化としても典型的なシェルの現地会社と言えるからだった。ここでマッキンゼーとシェルが個人的にもよく知り合い、共同作業に慣れれば、自分が会長になったときに全社的な改革にすぐ着手できる。ルードンは将来を見越してそう考えた。
ベネズエラの仕事は、マッキンゼーにとって海外で初めて手掛ける大型プロジェクトである。マービンを含めたコンサルタント全員にとって、まったく新しい経験だった。
プロジェクトが発足した当時のCSVは13の会社の集合体だった。経営幹部のポストはオランダ人とイギリス人が厳正な比率で占めている。たとえば5つの事業のうち探査はオランダ人、販売はイギリス人・・・といった具合だった。こんなふうに国籍で担当を分けているため、結果的にCSVにはオランダ本社と英国本社の両方から指示が雨霰と降り注いでくる。マービンと4人のアソシエートから成るマッキンゼーのチームは、毎日のように権力抗争を目の当たりにした。ルードンの言うとおり、まさにCSVは巨大企業シェルの縮図だった。
調査は、いつも通り、事実を集めることから始まった。チームはまず、「組織と行動を共にする」ことを実践する。なかでも意思決定プロセスはジョン・ルードンが最も懸念する部分であり、マービンも同感だったから、チームはこのプロセスを入念に調べた。決定を下すのは誰か。どんな手順を踏むのか。基準は何か。決定を下すまでにどの程度時間がかかるのか。合理的な意思決定を阻む要因はあるか。あるとすればそれは何か。調査に加えて経営陣との面談にもたっぷり時間をとったコンサルティング・チームは、徐々に現状を把握していった。
最初の3週間、マービンは4人のアソシエートに付きっきりだった。昼間はCSVのエグゼクティブと精力的に話し合い、メモをとっては夜にチームとミーティングをこなす。こうして仮説の精度を高め、次に何をすべきかチームに助言した。この期間には、マービンはよくCSVの経営幹部を夜のミーティングに誘っている。夕食を共にしながら、くだけた雰囲気の中でオフレコの意見を聞くためだ。
このときチーム・リーダーを務めたヒュー・パーカーは、こんなことを話している。
シェルの誰かが、「マービン・バウワー」は非常に単純明快で分かり易い」と言った。私は思わず「マービンが単純とは思いませんが・・・たしかに曖昧なところや婉曲なところはないですね」と答えたものだ。すると相手は、「そう、彼が言ったことは額面どおり受け取れる。つまり誠実だということだ。だから、信頼できる」と頷いた。
「組織と行動を共にする」ということは、マラカイボ湖岸に位置する西部地区や湖周辺の油田、カルドンの製油プラントにも行くことを意味する。1956年当時、これはかなり危険な冒険だった。チームの一員で、のちにマッキンゼーのマネージング・ディレクターを務めたリー・ウォルトンにとって、これは忘れられない体験となった。
調査は現場レベルから始まった。採掘現場だ。マラカイボ湖周辺の油井は全て視察したよ。バチャケロ、ラグニラス、メネ・グランデ・・・とくに悪名高かったのがカシグアだ。鉱区をぐるりと取り囲む格好で先住民が住んでいてね。太古さながらの暮らしをしていた。足で射る変わった弓が得意な連中だった。
カシグアへ行くにはボートで川を遡らなければならない。ボートは金網で覆ってあった。矢を射かけてくる先住民の姿は見えないんだが、ひゅうひゅう音を立てて矢が飛んできて、金網に当たって川に落ちる。文字通り命がけの川上りだ。採掘現場では、矢の届く距離が100メートルだからというので油井から200メートルのところにフェンスを張り巡らせてあった。先住民は夜になるとやってきてフェンスの向こう側から矢を放つ。採掘用のリグには夜間照明が付いているから、それに向けて矢を仕掛けてくる。だがもちろん届かない。翌朝になると現場の労働者がやってきて矢を拾い集め、マラカイボまで持っていって観光客に売っていたよ。矢の中には1.5メートルぐらいのとても長いものもあった。カシグア鉱区のすぐ近くで倒れていた農民のことは忘れない。トラクターの上に座っていて矢に当たったんだ。胸に刺さった矢が背中まで突き抜けていた。もちろん死んでいたよ。わかるだろう、冗談事じゃなかった。
こうして現場調査によるデータ収集が行われる間、マービンは毎月のようにベネズエラにやってきた。ルードンもこの件に非常な関心を持ち続け、何度も現場視察を行ったほか、マービンとは頻繁に電話で連絡をとっている。
データ収集・整理・分析が終わった段階で、最初の会議が開かれた。CSVの組織編成についてチームから最初の叩き台を提案する会議である。マービンは会議のだいぶ前に到着し、準備に大わらわのチームにあれこれアドバイスした。プレゼンテーションの前には必ずきちんと書面を仕上げておくというのが、マービンの決めた鉄則である。その方がはるかに分かり易いからだ。マッキンゼーが初めて海外でする大仕事、しかも困難の多い組織改革とあってチームの緊張は一通りではなかった。
この件でマービンから直接指導を受けたリー・ウォルトンは、次のように回想している。
マービンはベネズエラにやって来ると、必ずチームに活を入れた。私はマービンを尊敬していたが、すこし怖くも思っていた。彼が来ると神経を張り詰めていたよ。マービンは決して思いつきで何かを言って忘れてしまうような人じゃない。彼のアドバイスは的確で、真剣に聞いて実行しなければいけない。そんなわけでマービンが来るのは楽しみでもあったし、恐ろしくもあった。
われわれはシェルの部門毎に報告書を作成した。部門は10以上あったから、報告書も10通以上になった。チーム・リーダーのヒューと私で、たとえばヒューが政府の対応について、私が製油所について、という具合に分担して書いていた。ただ西部地区は重要で、調査にも時間をかけたから、合作することにした。まずはヒューがカラカス、私がマラカイボについてそれぞれ自分の担当分を書き、次に私がカラカス、ヒューがマラカイボについて書く。そして最後に調整して仕上げるという段取りだ。で、その報告書がまだできかけの時にマービンが部屋に入ってきた。
「できあがっているのがあれば、いますぐ読みたい」という。そして、山積みになっていたものの上から何通か取り上げて出ていった。そのときヒューと私は別の報告書にかかりきりだったから、山のてっぺんに例の西部地区のできかけの報告書が乗っていたのに気付かなかった。
一時間も経たないうちにマービンが報告書を片手に恐ろしい勢いで戻ってきた。「これまで読んだなかで最低の報告書だ。ほかのも全部この調子なら最悪だ」とマービンは強い口調で言った。そして私に向かって「直ぐに来るんだ。私が口述するから、君は報告書の書き方を勉強したまえ」と命じた。ヒューも私もさっぱりわけが分からなかったが、とにかくマービンのオフィスに行くしかない。マービンはじっくり私を睨みつけると、口述を始めた。
それですぐに私は、マービンが書きかけの西部地区の報告書を見て怒っていることが分かったよ。15分ばかり私はおとなしく書きとっていたが、とうとう勇気を奮って言った。「あのう、ちょっと気付いたことがあるのですが」。マービンは不快そうに私を見た。ただでさえ腹を立てているところへ、話の腰を折られたのだからね。それでも彼は私に発言を許した。そこで私は、それが書きかけであること、ヒューと私は西部地区の調査に多大な時間を費やしたのでいい報告書を書ける自信があることを説明した。しゃべっている間中、胃が締め付けられるようだったよ。これだけ怒らせてしまったのだからもう将来はないとまで思った。私が話し終わると部屋は静まりかえった。居ても立ってもいられなかったよ。マービンはしばらく眉をひそめて考えていたが、とうとう「わかった。それじゃあ持っていきなさい」と報告書を返してくれた。
そこで私はそいつを持ってヒューのところへ戻った。マービンもすぐ後から来て、今度は違う報告書を取り上げ、ヒューと私には口もきかずに出ていった。私はヒューに何があったのかを説明し、私たちは午後いっぱいかかって例の報告書をまとめる作業をしたが、ヒューはそれを私の告別式の準備だとか質の悪いジョークを言っていたよ。
2、3時間後にマービンがやってきた。もう、私の心臓は止まりそうだった。ヒューもそうだったと思う。ところがマービンは嬉しそうに「これは、今まで読んだ中で最高の報告書だ」と言う。彼が手にしていたのは、私がカルドン製油所について書いたやつだった。最初私は、怒ったのを帳消しにするために優しくしているのかと思った。でもそうじゃなかった。マービンは本当にその報告書を高く評価していたんだ。「最初の報告書では、どうやら私は思い違いをしたようだ。この調子なら安心していられる」と言ってくれた。
あとになって、彼の言葉が嘘じゃないことが分かったよ。というのも、ファームの「報告書作成ガイド」にお手本として私の報告書が掲載されたからだ。
チームはCSVの組織構造がどうあるべきか、またベネズエラの立場としてオランダ本社と英国本社の相互関係がどうあるのが望ましいかを緻密に検討していった。そして13ある独立企業を6事業部に統合し、権限と説明責任を明確に規定した1つの事業会社を発足させることを提案する。さらにCSV経営チームを設け、各事業部の風通しをよくして戦略・財務情報が共有されるようなメカニズムも同時に提案された。
シェルはこれらの提言を受け入れる。そしてこの事業会社方式は、すくなくともベネズエラではうまく機能することが立証された。この時、グループ本社の組織改革への道が拓かれたと言えるだろう。ルードンはそのことをよく理解していた。CSVと英蘭本社に関するマッキンゼーの提言は、グループ全体の組織構造を変えなければ実現できないからである。
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